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【アラベスク】  第6章 雲隠れ (前編)



第4節 お久しぶり [1]




 ひどく寒い。
 全身を上下させ、荒々しい呼吸の中で、必死に頭を回転させる。
 寒い。
 だがその寒さは、たとえば冬の寒さだとか、雪の冷たさなどではない。むしろ背中には、ジットリとした蒸し暑さが漂う。
 暑くて全身に汗を掻いている。なのに、噴出すそばから蒸発し、急激に体温を奪っている。

 暑いのに寒い。
 わかるだろうか?
 暑いのに、寒いのだ。

 美鶴(みつる)は、ようやく整い始めた呼吸の中で生唾を呑んだ。渇いた喉に、ヒリリと痛い。
 そう、とても喉が渇いている。吐き気に耐えた腹と喉が、激しく水分を欲している。
 呼吸に上下する全身には、鈍痛が滞っている。
 何があったのか?
 思い返して甦る、息苦しさ。あまりの苦しさに、声も出なかった。
 いや、実際には出していたのかもしれない。ただ自分の声に耳を傾けることができるほど、美鶴には余裕もなかった。
 重い痛みの圧し掛かる全身。だが今の美鶴には、その身体に両手を回して(いた)わってやる術はない。
 なぜならば、美鶴の両手は後ろで縛られている。両足首も(しか)り。
 縛られたままの身体に痛みのような気分の悪さが襲い掛かり、吐き気に床をのた打ち回った美鶴は埃まみれだ。
 何なのだ?
 考える。
 何が起こったのだ。
 さらに記憶を遡る。

 独りの駅舎。霞む視界。全身への衝撃。特に頭。

 そう言えば、突くような臭いがした。誰かに押し倒されて、頭を打った。
 そこから記憶がない。
 記憶がないのに、なぜだかひどく、楽しかったような気がする。ひどく苦しかったのに、ひどくフンワリとした、浮遊感だけがなんとなく残る。

 辛かったのに、楽しかった?

 鼻を突く臭い。

 ……… シンナー?

「やっとおとなしくなったね」
 暗闇の中に響く人影。
 そう、ここは暗い。正確には薄暗い。
 横たわる床の近くに机があるらしい。そこから光は漏れている。だがそれだけ。
 この部屋には窓もないのか? それとも、今は夜なのか?
 口を塞がれているワケではないのに、答えることもできない美鶴。人影がゆっくり首を傾げる。

二百十日(にひゃくとおか)

 ポツリと呟く。
「立春から数えて二百十日目。現在の暦で言うならば、八月末日か九月一日になることが多い」
 携帯を眺めているのだろうが、画面からの明かりよりも、より強い明かりを背後から浴びている。見上げる角度も悪いのだろう。顔は見えない。
「九月は稲の収穫時期。その頃に来る台風はまさに厄災」
 少し掠れた、甘い声。
「ゆえにその昔、嵐の来る確立が高い二百十日は、八朔(はっさく)や二百二十日と共に厄日として恐れられていた」
 甘い声。
「今日は君にとって、まさに二百十日というわけだ」
 パチンと、携帯をたたむ音。
 首を捻り、明かりが当る。少年の顔が、白々と光る。
「頭は痛い?」

 ――――――っ!

 再び記憶が、飛ぶかと思った。
「脳震盪なんてヘタしたら死ぬかもと思ったけど、まぁこっちとしては、死んでもらってもかまわなかったワケだから」
 開けた口からは言葉も出ず、瞠目したまま瞬きもできない。
「お久しぶりだね。元気だった?」







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